あすなひろしバイオグラフィー
プロフィール
- 1941年、東京生まれ 。本籍は宮崎県西臼杵郡三ヶ所。
- 1961年、少女クラブ冬の号に「まぼろしの騎士」でデビュー。
- 以来少年誌、青年誌にも次々と作品を発表し、流麗な描線と時に叙情的、時にコミカルといった多彩な作風で読者を魅了。
- 1972年、「とうちゃんのかわいいおヨメさん」と「走れ!ポロ」で第18回小学館漫画賞を受賞。
- 2001年3月22日、肺がんのため他界(享年60)。
- 2004年、「NHK BS マンガ夜話第31 弾」で取り上げられる。
- 2010年7月、YASUDA ART LINK(東京)にて初の原画展を開催。
- 2010年8月、ギャラリーチフリグリ(仙台)にて原画展を開催。
- 2011年3月~9月、河口湖ミューズ館(山梨)にて原画展を開催。
作品年表
少女漫画群・前期(1961~1970)
あすなひろしは19歳の冬、「少女クラブ」1961年正月増刊号に「まぼろしの騎手」の掲載が決まり、「少女ブック」編集部に持ち込んだ「南にかかやく星」も採用され、2誌で同時デビューした。「少女クラブ」では新人作家の舞台である増刊号や別冊付録で読み切り作品を矢継ぎばやに依頼され、ほどなく本誌での連載をまかされるようになるが、この時期はあすなひろしにとってまだ習作期であり、技術面では自身でも“稚拙だった” と後年語っている。
その後約2年間休筆し、さまざまな職業を転々としたという。しかしこの間も漫画家として修養を重ねていたのは間違いなく、1964年春「りぼん」増刊号にて華麗に画風を一変させた「みどりの花」を発表し、再デビューを飾ることとなった。ポエミックな物語に洗練された画風が結びつき、あすなひろしの作風はここから確立される。
少女漫画群・後期(1970~1977)
1966年頃より、あすなひろしは当時勃興していた青年向け漫画誌に軸足を移し、デビュー以来のホームグラウンドであった少女雑誌からは徐々に離れていったが、「小説ジュニア」等での読み切りコミックは絵柄こそ青年漫画の画風を反映させていたものの、少女漫画での抒情性をより一層深化させて作品歴のうえでひとつのピークとなった作品群であった。
それらを収録した初単行本「サマーフィールド」を上梓したのを一区切りとし、70年代の少年漫画で従来の無国籍性から脱し、日常的な作風を獲得していくことになるのだが、この側面は「女学生の友」で4年以上に渡り「ポエムコミック」として連載された一連の読み切りシリーズにおいて豊かな実りをもたらすこととなった。シリーズ中の一編「走れ!ボロ」は1972年小学館漫画賞受賞作である。
少年漫画群・前期(1969~1976)
あすなひろしが少年誌に登板し始めるのは1960年代末からであり、それは週刊少年誌の読者年齢層の上昇から青年漫画作家が動員されるようになった流れの中に位置付けられる。
一方、創刊間もない「少年ジャンプ」においては先行の他誌よりも対象年齢がやや低かったこともあり、あすなひろしは常連漫画家の一人として本来の意味での少年漫画も手掛けるようになってゆく。同誌で発表の「ぼくのとうちゃん」「とうちゃんのかわいいおヨメさん」は代表作であり、特に後者は第18回小学館漫画賞の受賞対象となった。太めの線で描かれた画風は少年漫画の風潮ゆえの要請と思われるが、ストーリー面ではそれまでの無国籍性から脱し、作品上で日本、家族といった日常性やリアリズムがクローズ・アップされはじめたことが特徴である。
少年漫画群・後期(1976~1982)
1976年「週刊少年チャンピオン」に発表された「青い空を、白い雲がかけてった」の反響は大きく、その後各少年誌で爆発的に流行する学園青春物の発端となった。この作品自体も5年間に渡って続く長期シリーズとなる。当時「週刊少年チャンピオン」が社会現象を巻き起こすヒット作を多数抱えていた時代だっただけに、あすなひろしの名を「青い空を、白い雲がかけてった」とともに記憶している人も多い。作者自身、このシリーズに強い愛着を持っており、本来ならば主人公ツトムたちの卒業までを書き遂げたかったという。
少年漫画の分野ではその後も同誌をホームグラウンドとして、珍しい長期連載「風と海とサブ」、力作「ぼくたちの大砲」などが発表された。
青年漫画群・前期(1966~1970)
1960年代後半に入ると、あすなひろしは青年コミックの領域に進出する。当初は少女漫画サイドへの配慮から、このジャンルでは臼杵三郎の変名を用いていた。(やがて「COM」などマニア誌向け雑誌にも登板されるようになるに従い、臼杵三郎名義は廃され、あすなひろしのペンネームで統一された。)
ストーリーの多くはこの時代の青年漫画誌の主流であったハードボイルドだったが、内外のイラストレーションの画風を取り入れ、少女漫画とはまた違った洒脱さをこの領域にもたらした。
作者自身の述懐では、この時期ほとんどの青年誌を総なめするように描きまくっていたという。
青年漫画群・後期(1970~1983)
1970年代中盤、あすなひろしは最多作期を迎える。青年・少年・少女、各ジャンルでの絵柄が統合され、ストーリー面もそれぞれで培われた要素が一体となって、代表シリーズ「哀しい人々」を生み出す。
これは「ビッグコミック・オリジナル」に不定期連載された読み切り短編群であるが、上梓された同名の単行本(全3巻)には他の青年誌に発表された作品も含まれており、内容的にはバラエティ豊かでありながらも、「哀しい人々」とはこの時期のあすなひろしの青年漫画を総括するシリーズタイトルであったといえる。作者自身、「哀しい人々」で自分の世界が出せるようになったという意味のことを語っている。
青年漫画群・晩年期(1983~)
1980年代前半からあすなひろしの作品発表数は減少していたが、永年暮らした神奈川県の葉山から郷里広島に戻った1985年以降は注文に応じた執筆を行なわなくなった。それゆえ、晩年と言わざるを得ないこの時期は正直に自分の描きたい作品だけを描いていたことになるが、「哀しい人々」の時代よりペシミスティックな要素が深まっており、作者の閉塞感を強く感じさせもする。
1989年以降はあすなひろしとして表立った発表は行なわなかったが、2000年末に肺癌で入院するまで画業を絶やすことはなく、「東回帰線」などの未発表稿も残されている。
名作漫画群(1965~1983)
かねてから自作における文学性が注目されていたためか、あすなひろしには文学作品の漫画化が少なくない。古くはバレエ「ジゼル」に基づく「ミルタの森」(水野英子との合作)から、作品譜のうえでひとつの頂点をなす「嵐が丘」を経て、後期には五木寛之「海を見ていたジョニー」に至るまでを手掛けている。
こうした文学作品の漫画化のほとんどは編集サイドからの企画に乗ったもので本意ではなかった場合も多かったようだが、一方で幼少期より耽溺していた宮沢賢治とプーシキンの作品をともに自ら漫画化しているのは印象深い。
(解説文:小松どど)